• 第35回(平成29年度)

    大阪科学賞(OSAKA SCIENCE PRIZE)受賞者の横顔

     

    熊谷  隆 (くまがい たかし) 

     

    現職: 京都大学 数理解析研究所 教授

    https://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~kumagai/

    略歴:

    1989年 3月  京都大学理学部卒業

    1991年 3月  京都大学大学院理学研究科修士課程修了

    1991年 4月  大阪大学理学部助手

    1994年 3月  京都大学において博士(理学)の学位取得

    1995年 4月  名古屋大学大学院多元数理科学研究科助教授

    1998年 4月  京都大学大学院情報学研究科助教授

    2001年 4月  京都大学数理解析研究所助教授

    2007年 4月  京都大学大学院理学研究科教授

    2010年10月 - 2017年11月現在 京都大学数理解析研究所教

     

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  • 研究業績:複雑な系の上の確率過程と異常拡散現象の解析

     

    20世紀後半に、フラクタルを典型例とする複雑な系の上の幾何学が発達すると、その上の熱伝導や波動の伝播といった物理現象にも関心が集まった。複雑な系の上のダイナミックスの研究が進められ、熱伝導が通常のユークリッド空間のそれとは異なる、異常拡散を起こすことが分かってきた。
    受賞者である熊谷隆氏は、1980年代に始まったフラクタル上の確率過程の研究を進展させ、より複雑度の高い系の上の異常拡散現象の解析へと発展させるという業績を挙げている。熊谷隆氏は、典型的なフラクタル上でブラウン運動の詳細な性質の研究や異常拡散現象の解析を行い、当該分野の基礎理論を開拓した。特に、20年以上未解決であったシェルピンスキーカーペット上のブラウン運動の一意性を証明したことは、この方面の大きな進歩であると高く評価されている。
    熊谷隆氏はまた、熱方程式の基本解の精密な評価に関して、フラクタルを含む広い範疇で摂動安定性理論を構築した。さらにこの理論を発展させることにより、相転移を持つ確率モデルの臨界点における熱伝導の研究を推し進め、いくつかの重要な確率モデルで熱伝導に関する数理物理学者の予想(アレキサンダー・オーバッハ予想)を肯定的に解決している。近年は、広い範疇の飛躍型確率過程の解析も展開している。
    このように熊谷隆氏は、フラクタルを典型例とする複雑な系の上の異常拡散現象の数学理論において世界をリードし、優れた成果を挙げている。これらの成果は、例えばネットワークにウイルスが侵入した時の伝播の仕方や、不均質な媒質からなる土壌への汚染物質の染み込み方など、現実のモデルにも適用できる可能性があり、基礎理論と応用の両面において今後の発展が期待できる。
  • 第35回大阪科学賞 記念講演

    複雑な系の上の確率過程と異常拡散現象の解析

    〜複雑な空間の上の熱の伝わり方を探る〜

    京都大学数理解析研究所 教授 熊谷  隆
    1.はじめに:ランダムウォークと熱の伝導 

     物質の中では、各々の粒子がランダムに振動することで熱が伝わっていきます。このような熱伝導は、熱方程式という微分方程式の解の挙動を調べることで、数学的に厳密な形で解析することができますが、実は熱方程式を解析するための、もっと直感的に分かりやすい方法があります。すなわち、空間上にブラウン運動を作り、このブラウン運動の性質を調べることによって熱方程式を解析するという方法です。(皆さんの中には、理科の時間に顕微鏡で観察した花粉の粒子の動きとしてブラウン運動という言葉に馴染みがある方もおられると思います。ここでいうブラウン運動は、粒子のランダムな動きを数学的に記述したものです。)空間が離散の場合には、ブラウン運動の代わりにランダムウォークを使って解析ができます。このような確率論を使った解析は、粒子の動きという具体的なイメージがあるので分かりやすく、さらに「微分が直接的には出てこない」という強みがあります。次節で述べるフラクタルのような、滑らかでない空間の場合、空間の上の微分の意味をつけることが大変難しくなりますが、ランダムウォークやブラウン運動はそもそも滑らかなものではありませんので、これらを用いて複雑な系の上の熱伝導を解析できる可能性があるのです。

    2.フラクタルとは 

     自然界には、山の稜線やリアス式海岸などギザギザとして複雑な構造をもつものが数多く存在しています。 20世紀後半に、フランスの数学者 マンデルブロは、このような複雑な構造の一部分と全体の間に自己相似性があることを見出し、そのような図形を総称してフラクタルと呼びました。フラクタルの典型例としては、右上の図に示すシェルピンスキーガスケット、シェルピンスキーカーペットなどがあります。

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    3.フラクタル上のランダムウォークとブラウン運動 

     はじめに、正方格子上のランダムウォークと、そのスケール極限で現れるブラウン運動について説明しましょう。ある点にいる粒子が1秒後に等確率で隣の点に動く時、このようなランダムな粒子の動きをランダムウォークと呼びます(右図参照)。ここで、ランダムウォークのメッシュをどんどん小さくした極限を考えましょう。空間としては正方格子を縮小して一辺の長さを2-nとしてnを無限大にすると連続な空間(ユークリッド空間)になりますが、対応するランダムウォークは1秒間に2-nしか動かないので、そのままでは極限を取ると全く動かなくなります。そこで時間もnに応じてスピードアップしてみましょう。この時、時間を4 n=22nでスピードアップすると、ブラウン運動と呼ばれるランダムな粒子の動きに収束するのです。このブラウン運動が熱の伝わり方と関係するのは、ブラウン運動に対応する微分作用素(正確に述べると、ブラウン運動から決まる半群の生成作用素)がラプラス作用素と呼ばれる二階微分の1/2倍になり、熱の初期分布fに対してu(t,x)=E[f(B(t))|B(0)=x](つまり、時刻0でxにいるブラウン運動の粒子の、時刻tでのfの値の平均)と置くと、このu(t,x)が熱方程式の解になることから説明がつきます。このブラウン運動の熱核(熱方程式の基本解)は、次のようなガウス核と呼ばれるものです: p(t,x,y)=(2πt)-d/2exp(-|x-y|2/(2t))。

     次に、同じ考え方でシェルピンスキーガスケット上にブラウン運動を作りましょう。まずは右の図のようなガスケットを近似したグラフで、先ほどと同じように、ある点にいる粒子が1秒後に等確率で隣の点に動くようなランダムウォークを考えましょう。
     グラフを縮小して、一辺の長さを2-nとしてnを無限大にすると、無限に延びたガスケットができます。ここでも対応するランダムウォークの時間をnに応じてスピードアップする必要があります。この時、時間を5 n =2n log 5/log 2でスピードアップすると、ブラウン運動と呼ばれるランダムな粒子の動きに収束することが、1980年代後半に数学的に厳密に示されました。4<5なので、正方格子の時より時間をさらにスピードアップしないといけないのですが、これは、ガスケット上の熱伝導が通常の空間より遅い(劣拡散である)ことを示しています。通常の拡散は、上に見たように空間と時間のスケールが2乗の関係で結びついており、この時ウォーク次元が2であるといいます。(これは、熱方程式に出るラプラス作用素が二階微分になっていることと深く関係しています。)ウォーク次元が2でないような熱拡散の現象を異常拡散現象と呼びます。

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     このようなフラクタル上のブラウン運動の構成には、楠岡成雄先生(東京大学名誉教授)、木上淳先生(京都大学教授)、福島正俊先生(大阪大学名誉教授)など、たくさんの日本の数学者が初期の段階から深く関与し、関連分野の研究は日本が世界を引っ張って来ました。私が研究者としてスタートしたのは、まさにフラクタル上の確率論、解析学が始まった時期で、先生方の深い研究を間近で見てアドバイスを受けながら自分の研究を進めることができたのは、大変幸運でした。私の研究は、このようなフラクタル上のブラウン運動や対応する熱方程式の解を詳しく調べることから出発しました。私は、広い範疇のフラクタルで熱方程式の解の精密な評価を行い、より解析が難しいシェルピンスキーカーペットについて、その上にブラウン運動と呼べる性質の良い粒子の動きが唯一つ存在することを、カナダやアメリカの研究者との共同研究で証明しました。後者はフラクタル上の解析学で大きな未解決問題でしたが、「三人寄れば文殊の知恵」のことわざのように得意技の異なる研究者がそれぞれに知恵を出し合って、解決することができました。

    4.ランダムな媒質の上のランダムウォークと異常拡散 

     フラクタルは複雑な系の典型例ですが、かなり理想化された例です。今世紀に入ってからの我々の研究の主題の一つが、複雑な系やその上のランダムウォークに多少変形を加えた時に(例えば、ランダムウォークで粒子が動く推移確率を多少変えるなどの摂動を加えた時に)、熱の伝わり方がどのように変わるかという問題を解析することでした。この研究の成果として、フラクタルを含む広い範疇で、ある程度の摂動を加えても大局的には熱伝導に大きな変化はないという、熱伝導の摂動安定性理論を構築することができました。
     さらにこの理論を発展させることで、ランダムな媒質の上のランダムウォークとそのスケール極限の研究を進めています。典型例はパーコレーションと呼ばれるモデルで、d次元正方格子のそれぞれのボンドを独立に確率pで開き、確率1-pで閉じる(切る)ことで作られるモデルです。dが2以上の場合、ある0<pc(d)<1が存在してp<pc(d)ならば無限クラスター(開いたボンドの繋がりで、長さが無限の集合)は存在せず、p>pc(d)ならば無限クラスターが唯一つ存在することが知られています。例えば、温度を上げることで氷が水になり、さらには水蒸気になるように、統計力学においてある系の相が別の相に変わることを相転移と呼びますが、パーコレーションモデルは、相転移を起こす最も基本的な確率モデルなのです。

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     上の左の図は、パーコレーションの例です。(太線は、原点と繋がっているクラスターです。)右の図は、このようなパーコレーションクラスター上に熱がどのように伝わるかを表すシミュレーションです。(共同研究者のマルチン バーロー先生が作成されました。)青い部分は冷たく、赤や白の部分は熱い部分です。図が示すように、たくさんの穴が空いているため熱の伝わり方はいびつになっています。このモデルの上の熱の伝わり方を、数学的に解析するのが我々の目標です。そのためにパーコレーション上のランダムウォークを考えましょう。粒子は1秒後にボンドで繋がった近傍の点に等確率で移動します。パーコレーションクラスター上のランダムウォークは、「迷路の中のアリ」の動きに例えられますが、ランダムに作られた迷路の中をアリがウロウロさまよっている様は、まさにこの動きを的確に表現しています。

     まずは優臨界確率、つまりp>pc(d)の場合を考えましょう。この場合には、たくさんの穴があるにも関わらず通常の熱伝導と同様の挙動をすることが分かっています。では、臨界確率直上、つまりp=pc(d)の場合はどうでしょうか?1982年に数理物理学者のアレキサンダーとオーバッハは、臨界確率においてランダムウォークは異常拡散を起こし、その上のスペクトル次元と呼ばれる量が4/3になると予想しました。私は、カナダやイギリスの研究者との共同研究において、樹木上のパーコレーションや高次元の有向パーコレーションにおいてこの予想を肯定的に解決しました。(高次元のパーコレーションについては、我々の手法を一部援用することで、その後イスラエルの研究者達が肯定的に解決しました。低次元においてはこの予想は正しくないと考えられています。)さらに、この場合ウォーク次元は3であることも分かっています。スペクトル次元と呼ばれる量は、このクラスターのハウスドルフ次元が2でウォーク次元が3であることから、2/3を2倍することで導き出すことができるのです。

    3.おわりに 

     複雑な系の上の物理現象の解析が数学的に厳密なやり方で研究されるようになったのは、典型例であるフラクタルの場合ですからこの30年くらいのことです。世の中には色々な種類の複雑な系があり、その上の熱や波の伝わり方を研究することは、例えばネットワークにウイルスが侵入した時の伝播の仕方を調べたり、不均質な媒質からなる土壌に汚染物質が染み込む速さを解析するなど、現実のモデルにも応用できる可能性があり、基礎理論と応用の両面において今後の発展が期待できます。(「複雑な系」の具体的な例、特に確率モデルとの関わりについては、[1],[2]などを読むとイメージが湧き、全体像を捉えるのに役立ちます。より専門的な内容を知りたい人は、[3]にチャレンジして見てください。)複雑な系の解析は、ビッグデータやネットワークなど現代社会に大きく関わる問題を解析することにも繋がります。まだまだ若い研究分野で、様々な方向に研究が発展していく可能性があります。皆さんも、この広くて深い世界の解明に挑んでみませんか?

    【参考文献】  

    [1] 香取真理著:複雑系を解く確率モデル ― こんな秩序が自然を操る 講談社ブルーバックス(1997).

    [2] 増田直紀・今野紀雄著:「複雑ネットワーク」とは何か 講談社ブルーバックス(2006).

    [3] 熊谷隆著:Random walks on disordered media and their scaling limits, Lect. Notes in Math. 2101, Springer, New York, 2014.

  • 用 語 集

    フラクタル

    20世紀後半にフランスの数学者マンデルブロが造り出した用語。図形の一部分と全体の間に自己相似性があるようなものをフラクタルという。山の稜線やリアス式海岸など自然界にもフラクタル的な構造を持つ図形がたくさんある。フラクタルの典型例としては、シェルピンスキーガスケット、シェルピンスキーカーペットなどが挙げられる。

     

    確率過程

    ランダムな動きの時間発展を総じて確率過程と呼ぶ。例えば、ランダムウォークやブラウン運動など、粒子のランダムな運動が確率過程の典型例である。ランダムウォークやブラウン運動などの確率過程を解析することにより、空間の上の熱伝導(熱の伝わり方)を数学的に解析することができる。

     

    異常拡散現象

    通常の空間(ユークリッド空間)での熱の伝わり方と、質的に異なる熱拡散が起きる現象を異常拡散現象という。ユークリッド空間では、ブラウン運動の粒子はt秒後に平均して元の点から√t ほど離れた位置にいるが、フラクタルにおいては拡散の仕方が遅く、ta ,a<1/2のオーダーほど離れた位置にいることが知られている。

     

    熱方程式の摂動安定性理論

    元の熱方程式の係数の部分を多少変える、あるいはランダムウォークにおいて粒子が動く推移確率を多少変える(このような操作を、摂動を加えると言う)ことで、熱方程式の解の大域的な性質には変化が生じない(摂動安定である)という理論。

     

    相転移

    例えば、温度を上げることで氷が水になり、さらには水蒸気になるように、統計力学においてある系の相が別の相に変わることを相転移という。相転移を起こす最も基本的な確率モデルは、パーコレーションのモデルである。これはd次元正方格子のそれぞれのボンドを独立に確率pで開き、確率1-pで閉じる(切る)ことで作られるモデルである。dが2以上の場合、ある0<pc(d)<1が存在してp<pc(d)ならば無限クラスター(開いたボンドの繋がりで、長さが無限の集合)は存在せず、p>pc(d)ならば無限クラスターが唯一つ存在することが知られている。

     

    飛躍型確率過程

    飛躍(ジャンプ)する粒子のランダムな動きの時間発展のこと。